鯉のぼりは、江戸期の節句幟(絵のぼり)に付属する「招き」などが変化し、当時よく描かれていた鯉の滝のぼりが立体化されたという説が有力です。
明治初期には黒い真鯉一匹が主流であり、
「鯉幟」という表記が幟文化の系譜を物語っています。
—— いま、私たちが当たり前のように目にしている「鯉のぼり」──。
その起源をたどると、江戸時代の「武者絵のぼり(節句幟)」に深く結びついています。
本ページでは、いわき絵のぼり(節句幟)の絵師・辰昇(しんしょう)による収集と実見をもとに、
鯉のぼりが付属(招き・吹流し等)から独立し、どのように変化してきたかを簡潔に整理します。
—— 現存する史料の範囲では、鯉のぼりは江戸中〜後期に広がった絵のぼり文化の派生とみなす、
通説に近い見解が一般的です(地域差・時期差あり)。
同時代の歳事記には、「近世の簡易」「東都の風」といった記述が見られ、
当初は町人層による新しい風俗として受け止められていました
〔注1〕。
研究上の立場(共有)
鯉のぼりを絵のぼり文化の派生とする見解に、現状、対立する体系説はほとんど見当たりません。
いっぽうで初出年や地域差など細部は未詳のため、断定は避ける立場をとります。
—— 「鯉のぼり」と「武者絵のぼり(節句幟)」はいずれも五月の外飾りですが、
その成立の重心は幟(旗)側にあります。
江戸初期にはまず武者絵のぼりが広まり、
鯉のぼりは江戸中〜後期に、付属(招き・吹流し等)から独立していったとみなす、
通説に近い見解が一般的です(地域差あり)〔注1〕。
絵のぼりは旗指物(軍旗)を由来とする節句の外飾りであり、
江戸期を通じて儀礼の中心を担っていました。
江戸当時、鯉のぼりのみを盛大に掲げた記録は多くなく、
鯉はあくまで付属 → 独立という順に普及していったと考えられます。
鯉のぼりが主役化するのは、明治以降の流れです。
—— 絵のぼりの題材として、「鯉が滝を登る」図柄──いわゆる「登竜門図」は、江戸時代の早い時期から定番化していました。
どうやらこの絵柄こそが、後に鯉のぼり誕生へとつながる鍵を握っているのです。
—— 実は、あの葛飾北斎もこうした「絵のぼり(節句幟)」を手がけた実物が複数残されており、北斎が得意とした「鍾馗」をはじめ、武運や出世を象徴する大画面の絵画は、江戸絵師たちの腕の見せどころでもありました。
—— 絵のぼりの上端に付けられていた「招き」や吹流しが、
やがて鯉意匠を取り入れて小型化・立体化し、
そこから鯉のぼりが独立したとみなす見解が一般的です(通説に近い)〔注1〕。
※ 江戸当時の儀礼の主役は幟。鯉は付属→独立へ(地域差あり)。
本ページで紹介している資料の一部は、
『江戸楽』2022年5月号 端午の節句特集記事(エー・アール・ティ株式会社)に提供・掲載されました。
掲載誌面と雑誌の表紙
・鯉のぼりが武者のぼりから変化した歴史(ショート動画)
・「鯉の滝のぼり図」の紹介動画
北斎も描いた、武家の節句飾り「武者絵のぼり」。その姿は、やがて鯉のぼりへと形を変えていきます。
▶詳しく読む江戸時代から350年以上受け継がれる、いわき市の手描き武者絵のぼり。高い技術と由緒ある文化の背景を、こちらで詳しくご紹介しています。
▶詳しく読む工房をご見学いただいた方の投稿より(@irodori_koinbr 様):
「絵幟の歴史を堪能出来る空間でした。鍾馗幟旗は生で見ると迫力がヤバかったです。生で見なきゃもったいないです!」